小田原の魚 豆知識
小田原の水産加工品
その1 蒲鉾
小田原は漁業が盛んで、豊富な水にも恵まれていたことから、漁獲物の保蔵手段として、江戸時代に蒲鉾づくりが盛んになった。現在でも、小田原と言えば蒲鉾と言われるように、小田原蒲鉾は、全国的に高く評価されている。 業界では、地元で水揚げされる原料と小田原産の杉板を使った「地魚づくり」蒲鉾の商品開発に取り組んでいる。 小田原では、古くから、漁獲物を保蔵するため、城下町ならではの巧みの技を生かした、水産加工品が盛んにつくられた。 現在でも、丁寧につくられた製品は、高く評価されている。
提供:小田原かまぼこ本陣 https://odawarakamaboko-honjin.com
小田原蒲鉾十か条
小田原蒲鉾協同組合の加盟企業様は、全国の皆様に小田原蒲鉾の歴史と伝統を守りつつ、高い品質も保った「小田原蒲鉾」をお届けすべく、「小田原蒲鉾十か条」を制定されています。
~以下、小田原蒲鉾協同組合・公式サイトより抜粋~
小田原と言えば蒲鉾、蒲鉾と言えば小田原・・・ということは、地場産業という言葉だけでは簡単に説明し尽くせない重みや責任がいつも存在しているということです。
そこで、私たち、蒲鉾の製造販売に携わる者は、小田原蒲鉾の何たるかを改めて熟考して他地域との違いを確認し、加えて、企業としてのあり方を厳しく問いながら、ここに小田原蒲鉾十か条を制定し、これまでと同様、いえ、それ以上に、小田原蒲鉾の歴史と伝統を守りながら、小田原蒲鉾の発展や品質保持に努力することを誓います。
一.小田原蒲鉾たる品質を守るための努力を怠らず、その品質は、企業同士の理解を得ることができること。
一.原材料、副原料などすべてを吟味し、小田原蒲鉾の名をけっして辱めないこと。
一.原魚の持ち味を生かして高たんぱくの製品を製造していること。
一.板付け蒸し蒲鉾であること。(リテーナ成型蒲鉾は除く)
一.小田原蒲鉾本来の製法・技法・技術を頑固に守り、将来もそれを尊重する意思を持っていること。
一.小田原市に本社が登記され、なおかつ経営に拠点が小田原市にあること。
一.小田原市内に自社の製造工場を持つこと。小田原以外に製造工場がある場合は、必ず自社工場であること。
一.小田原の蒲鉾業者の歴史を50年以上有し、周囲からも同業者からも広く認知されている企業であること。
一.小田原蒲鉾を大切にする信念をもつ経営者が携わる企業であること。
一.小田原蒲鉾協同組合の組合員であること。
以上十か条を遵守した上で、蒲鉾に含有される必須アミノ酸の量を化学的に測定し、基準をクリアしたものを、小田原蒲鉾として認定する。
その2 干物(ひもの)
小田原で干物が作られるようになったのは、小田原で漁業が盛んになりだした北条氏(戦国時代1495~1590年)の頃という説もあるが、江戸時代に入って、地場で揚がるアジ、カマスを開き干しにして、保存食として商いしたのがそもそもの起こりといわれている。魚の仲買業の副業として始まったが、今では地場産をはじめ、世界各地でとれた旬の魚を原料に、良質の水を使用し、丁寧な伝統の技で衛生的に量産され、全国に出荷されている。
江戸の頃より庶民の味として
魚を乾燥させて保存性を持たせる加工法の歴史は古く、弥生時代にさかのぼることができます。小田原で、干物が作られるようになったのは、小田原の漁業が盛んになりだした小田原北条氏(戦国時代1495~1590)の頃という説もありますが、江戸時代に入って、地場で揚がるあじ、かますを開き干しにして、保存食として商いしたのがそもそもの起こりといわれています。 魚の仲買業の副業として製造された干物でした、今では地場産を始め、世界各地でとれた旬の魚を原料に、伝統産業と衛生的な量産設備で、年間6、000トンの塩干品を全国に出荷しています。
写真提供:小田原ひもの協同組合
その3 塩辛・鰹節
小田原では、新鮮なイカを使った塩辛づくりが盛んに営まれてきた。糀入りのイカの塩辛は小田原が発祥。また、マグロやカツオの内臓を用いた塩辛(酒盗)づくりも古くから行われ、育まれた技でおいしい塩辛づくりが行われている。 また、鰹節も、「北条五代記」や「本朝食鑑」によると江戸時代に入る頃までには作られはじめていたようである。
小田原沖はカツオ・マグロの漁場で、天文6(1537)年の夏、北条氏綱がカツオ漁を見物していたところ、乗っていた小船にカツオ1匹が飛び込んできた。氏綱は「勝負に勝つ魚が飛び込んできた」と喜び、戦勝祈願としてその場で食した。その後の戦で見事勝利を収めたことから、武士の間で持てはやされるようになり、縁起物として戦の前の酒席に用意され、また鰹節は携帯食として重宝された。