小田原漁港の歴史
小田原では、漁業は古くから盛んだった。
■縄文時代:羽根尾の貝塚から釣り針や魚の骨が発見されている。
■鎌倉時代:カツオが獲られていた。
■室町時代:北条氏は漁業を奨励した。小田原の漁業は、現在の本町、浜町に「船方村」と呼ばれる漁村が起こったことがその発祥とされている。船方村に「魚座=中世、魚商人が結成した同業組合(広辞苑)」が生まれ、漁業と魚商が活発になる。
■江戸時代:小田原の初ガツオは江戸で売られていた。現在の本町に魚市を開く「市場横丁」が形成される。大量の漁獲物を保蔵する手段として、蒲鉾や干物、塩辛、鰹節などの水産加工品がつくられ、今日の発展につながっている。
室町時代
千度小路(現在の本町・浜町界隈)に「船方村」と呼ばれる漁村が起こった。北条早雲は漁業を奨励し、網・釣り・突棒等が盛んになった。北条氏綱は、讃岐から地引網を導入し漁獲量が増加した。現代の魚市場に当たる「魚座(魚商人が結成した同業組合)」と呼ばれる魚分配所ができ、漁業と魚商が活発になった。
江戸時代
■宿場町として魚の需要が増え、漁獲技術が各地から導入されて、カツオ、マグロ、アジ、ブリ、アマダイ、ムツ、カレイ、
イカなど色々な魚が漁獲された。
■「初ガツオ」といえば、初物好きの江戸っ子が競って食べたことで知られるが、そのカツオは、小田原(あるいは鎌倉沖)で漁獲されて江戸まで運ばれたもの。
■カツオは、小田原では「江戸魚」と呼ばれ、カツオが釣れると運搬船が横付けして、船中で値決めをして買い付けをした。また、マグロ釣りも盛んに行われ、マグロの内臓を原料とする塩辛は、小田原名物であった。
■本町に、魚市が開かれ「市場横丁」ができた。
明治時代
明治20年頃から、酒匂村山王原(現在の東町)沖で10~11月、マグロ漁が行われた。春は二宮と梅沢の沖4キロにある瀬の海でアジ・サバ・キンメなどが一本釣りされた。
明治40年3月、千度小路(現在の本町)に「株式会社小田原魚市場」が創業。
大正~昭和時代
■大正時代に、大敷網と呼ばれる大型の定置網が導入され、昭和30年代まで、相模湾の寒ブリは全国で有名になり、ブリ漁で
小田原の町は賑わいを見せていた。船6艘・1020人程で、「木遣り」を歌いながら、1~3万匹程を水揚げした。
■夜焚網(よだきあみ)によるアジ・サバ漁が行われた。大島の近くでは10月から12月の間スルメイカが捕獲された。
■片浦地区では「あま海女」がいて、海に潜り漁をしていた。(現在は、潜り漁は、男性だけで行われている。)
■昭和初期
この当時、漁獲物は「御幸(みゆき)の浜」(小田原市本町)などの海岸に陸揚げされていました。小田原は、近くに好漁場を持ち、京浜地方の大消費地に近く、交通の便も良いという条件を備えていましたが、この生産と消費を結ぶ漁港がありませんでした。
昭和6年、当時の小田原町は漁港建設を農商務省(現在の農林水産省)に調査依頼し、小田原漁港の修築計画を作成しました。
■昭和20年代
昭和21年、「港築運動」活動など地元の漁港建設への要望が高まる中、昭和22年に水産庁の認証を得ました。
昭和24年度に測量調査、翌25年度から「小田原漁港」の防波堤工事に着手しました。
昭和25年12月、「第二種漁港」に指定され、昭和31年10月、漁港管理者に小田原市が指定されました。
小田原漁港建設予定地の早川地区の海岸線は入り江を形成してなく、海底も急峻なことから、全国的にも珍しい「掘り込み式」の漁港として計画されました。
■昭和30年代
昭和32年度に南防波堤(現在の2号防波堤の一部)や東防波堤(現在の1号防波堤)などの外郭工事が完了し、翌33年度から内港(現在の本港)工事(掘削、浚渫作業)に着手しました。当時、小田原のブリ定置網漁は全国的に有名で、米神(こめかみ)漁場は日本一と称され、昭和20年代から30年代にかけて、ブリの漁獲は最盛を誇りました。
昭和35年3月、南防波堤の先端部(現在の2号防波堤の中間部)に設置された灯台に灯がともされました。(この灯台は、その後南防波堤が延伸され、平成5年に完成した2号防波堤の先端に平成11年に移設されました。)
本港西側岸壁(現在の2号陸揚岸壁と2号準備岸壁)と北側岸壁(現在の2号休けい岸壁と3号休けい岸壁の一部)が完成したことから、昭和37年には「入船式」が行われました。
■昭和40年代
18年の歳月と工事費約11億円をもって、昭和43年1月に「本港」が完成しました。
昭和43年3月、小田原漁港内に「小田原市公設水産地方卸売市場」が開設し、相模湾や伊豆近海をはじめとする全国各地からの陸揚げ拠点となりました。
昭和44年2月、「第三種漁港」に変更指定され、同年11月に漁港の管理が小田原市から神奈川県に移管されました。沿岸漁業の陸揚げ拠点としての発展と、漁船の大型化により、本港西側に「新港」の整備に着手しました。
■昭和50年代~60年代
12年の歳月と工事費約18億円をもって、昭和56年4月に「新港」が開港しました。
昭和56年度から新港の越波(えっぱ=波が防波堤などを越えること)対策に着手し、昭和62年度に完成しました。
昭和63年度から港内静穏度向上対策に着手し、平成6年度に完成しました。
■平成の時代へ
平成3年7月から小田原漁港で「港の朝市」がスタート。市外からも多くの方が来訪し、好評を得ています。
平成3年8月から「小田原みなとまつり」が開催され、真夏の賑わいのひとつになりました。
小田原漁港を根拠地とする市内10漁協が合併し、平成5年3月に「小田原市漁業協同組合」が誕生しました。
平成6年度から第9次漁港整備長期計画により、新港の西側に「蓄養(ちくよう=漁獲した魚介類を出荷前に生簀(いけす)などで短時日飼育すること。)水面」を整備する事業に着手しました。
■平成10年代~
平成10年3月、米神(こめかみ)漁場にハイテクを駆使した「モデル定置網」が完成しました。
平成14年度に特定漁港漁場整備事業がスタートしました。
平成15年度に緊急輸送物資受入れ施設として「耐震強化岸壁」「耐震強化岸壁荷さばき所用地」が完成しました。
平成15年度からは本港の耐震補強工事に着手し、平成15年度に「2号準備岸壁L=40m」、平成18年度に「1号防波突堤L=33m」「階段護岸L=69m」、平成19年度に「3号護岸L=65m」が完成しました。また、西側エリアでは、平成15年度に海水交換機能を備えた「防波堤(1) L=85m」、平成17年度は、「防波堤(2)(混成堤部)L=90m」が完成しました。
■平成20年代~
引続き本港の耐震補強工事を行い、平成21年度に「1号陸揚岸壁(南側)L=110m」、平成26年度に「2号休けい岸壁L=116m」、平成30年度に「1号準備岸壁L=45m」の耐震補強工事が完成しました。平成22年度には、西側エリア蓄養水面の「防波堤(3)L=40m」、平成24年度に「防波堤(2)ハイブリッドケーソンL=150m」、平成26年度に「3号準備岸壁L=105m」及び「西側エリア埋立工事」が完成しました。平成28年度「荒久海岸人工リーフ工事」を開始し、平成29年度に西側エリアの「蓄養駐車場」が完成しました。
■令和の時代へ
令和元年度に西側エリアの1号・2号臨港道路、1号多目的広場が完成し、「漁港の駅TOTOCO小田原」が開業しました。令和2年度には、「防波堤(2)延伸工事」に着手しました。
参考資料:神奈川県庁HP、小田原市HP、「小田原のさかな(本多康宏)」、「江戸釣術秘伝(小田淳)」、「旧山王小学校HP(鈴木七郎氏談)」